地下生活者の妄想

またフラフラはてなをさまよっていたら、たぶんソコソコ人気のある方の記事で気になったものが

あったので指摘を。。(地下生活者の手遊び 体験によらない知識の重要さについて言っておく)

簡単にいうと、映画評論家の町山さんの唐沢さんへの批判記事に対し、批判をしているわけですが

あまりに部分的に抜き出していて、恣意的にミスリードを狙っていると妄想してしまうぐらいです・・

まず、前提として、町山さんの批判記事がどういったものだったのかといえば

*1そういった時代に「知っている」それ自体は何の価値も持たなくなる。
問題はその知識をどう使っているか、だろう。
広く浅い断片的な情報をパラパラと並べるだけなら誰でもできる。
それらの情報を体系づけて自分の論を構築したり、独自の創造物へと発展しないとね。
「体験によって習得した技術」もネットや知識では得られないものだね。
たとえ「マトリックス」のように体験記憶を脳にダウンロードするテクノロジーができたとしても、体はついていかない。
経験を繰り返すことによって体が覚えた技術の価値はとりあえず落ちないだろう。
(中略)
雑学とは「役に立たない知識」だそうだが、役に立たない知識ばかり(しかも間違いだらけ)持ってるだけってことは、
やっぱり何の役にも立たない人間だってことじゃん!

まあ、至極最もな意見であるように自分には思えるが、この際自分の意見は横においておこう

っで、*2地下生活者さん(仮)は

「雑学とは「役に立たない知識」だそうだが、役に立たない知識ばかり(しかも間違いだらけ)持ってるだけってことは、
やっぱり何の役にも立たない人間だってことじゃん!」とかいうDISりをされると、
自分に向けられたものではにゃーとわかっていても、にゃんか反射的に「役に立たなくて悪かったなあああああ!」と
身構えてしまうのは僕だけではにゃーはずだ。

と始めに批判の理由を提示し

・体験なき知識も、1人のニンゲンの頭に放り込まれることによって勝手に関連づいて新しいものを生み出す可能性がある。
 少なくとも、頭の中に定着した知識はそれだけで生きた知識といっていい。
 役に立つだの立たんだのというチンケな基準でDISってはいかんだろ。
・体験なき知識をシステマティックに取り扱うのがカガクの方法論である。
 カガクの方法は万人にとって他者であるがゆえに普遍性をもつ。
 そして万人にとって他者であるがゆえに平等である。
体験ってものの重要性を否定するつもりもにゃー。しかし、体験なき知識だって使いようですよにゃ。
そして、体験の重視だって、それはそれで落とし穴はぽっかりと開いているわけでしてにゃー。

と批判をされているわけですが・・・この時点でもう皆さんお気づきでしょうが

地下生活者さん(仮)は何に対して批判しているのか、理解不能ですね

町山さんは唐沢さんが情報化された社会で、断片的な情報(無価値化した知識)を単に並べて提示していることを

指摘して、体系化し(すなわち組み合わせ)新しいものを生み出さないと意味がないと批判しているわけです

地下生活者さん(仮)の一つ目の批判

体験なき知識も、1人のニンゲンの頭に放り込まれることによって勝手に関連づいて新しいものを生み出す可能性がある。

とは、的外れどころか、批判対象の発言と同義です。

そして、町山さんは「体験によって習得した技術」というように

体系化により生み出されるものと同様、体験によるもの断片的にネット空間を漂う知識から

得られないものだと書いているわけです

地下生活者さん(仮)の批判するように、体験に裏打ちされた知識至上主義のようなことは一切かかれていないわけで

彼の言うところの他者である(客体化された)知識以外の知識を手に入れる重要性を書いているだけであることは一目瞭然

彼のダイアリーに飛んで見てもらえばわかりますが、故意にミスリードを誘うかのような引用の仕方に終始して

自分の持つ、まあ大したことでもない知識(まさに、無駄な知識)をひけらかしているようにしか見えない。

おそらく、彼は体験によらない知識の重要性をいいたいがために町山さんを出汁に使ったんでしょう

知識を披露したがる餓鬼の発想、行動パターンですね

こんなこと言ってたら、現実社会じゃパイぶつけられるよ ^^;<そんなことするのは町山さんだけかw)

*1:インターネットの発達した情報化社会の到来した

*2:tikani_nemuru_M

殺人犯を処刑してよい論理構成

はてなの上手な使い方が全然わからないで、ふらふらしてたら

死刑について書かれてた方がいらっしゃったんで、その方の意見に応えて

あと死刑存置派、廃止派の論点なんかを少し書きます。

まず、その方は (回虫さん 死刑廃止:議論に向けてのメモ)

人を殺してはいけないといったら「法」は人を殺しちゃいけないんだよ、それがタテマエというものだ

とおっしゃっていて、察するに範となるべき法が人を殺すことに抵抗感があるようです。

確かに、なぜ国は、あるいは法は人を死刑という形で殺すことができるんでしょうか?

その論理構成は、一般に社会契約説に基づくものと考えられます。

すなわち、社会に所属し、保護や利益、権利を獲得できる代わりに、他者に対して権利を侵害しない義務を

負っているという考えに立つわけです

さすれば、日本において死刑になるのは殺人犯(外患誘致とかあるが、書いてあるだけだし)のみですから

彼らは契約を破棄したため、命を保護してもらう権利を失っていると考えられるわけです。


っで未だに存置、廃止の両陣営の戦いは続いているわけですが(日本では9:1で存置が有利か!?)

少なくとも自分の妄想では、廃止派が存置派に対し、論破されない武器は唯一「冤罪の可能性」のみであります

違憲問題、目的刑問題、人権問題、あらゆる面で存置派は論破が可能です。

もしかしたら逆も然り、かもしれませんが、現在日本には死刑が存在していて、大多数の方々(内閣府の調査では9割近く)

が支持しているわけで、ある制度を変革、廃止するには、廃止する側が相手を論破せねばなりません

この点をよく皆さん見落としがちです。

「何が正しい」のか、議論する際、その立場は常に対等であるわけではありません。常に訴える側、現状でない側が

不利な条件を含めて覆す必要があるのです。

そして、最後に結論を。法とは社会秩序の維持のための道具に過ぎません。

死刑存置を主張する国民が、国民の大多数であるということは、唯一のウィークポイントである

冤罪の可能性について、受け入れるということです。実際冤罪について聞けば、ほぼ全ての人が

三審制もあり、私はそのリスクよりも死刑によって得られるリターンを受けたいというでしょう

それについて、想像力の欠如など誰が批判できるんでしょうか?

議論において、人の論理矛盾や論理的に弱い点をつくことはできます。しかし人の考えそのものを攻めることは出来ませんね

知識人ぶって死刑廃止を叫ぶ方々(消極的にも)はこの点を理解していない方が多いように思います。

自分は、大多数が納得する制度、それこそが正しい法であり、よって死刑制度に関しては存置しかないと妄想します。

追記 無差別殺傷事件対策マニュアル

前回、無差別殺傷事件に運悪く出会ってしまったときのための

対応マニュアルを書いたんですが

今回は、そもそも無差別殺傷事件そのものがなぜ起きるのか?どうすれば無くなるのか(減らせるのか)?

など問題そのものについて妄想してみたいと思います。

1.なぜ起きるのか?

一般には、「社会に対するメッセージ」というような言われ方をしたり

「自殺できないから死刑になりたい」とか、一部には「死刑までのフリーライド」など言われていますが

自分の好きな宇多丸師匠なんかは、ラジオ(タマフル)で

無差別大量殺人するような奴らは、死刑にしちゃだめだよ、むしろ長く生かして
お前らのしたことなんて、すぐ忘れられるちっちゃなことだったってことを認識させなきゃ
死刑にしちゃったら、人気絶頂で満足して死んじゃうよ

といっていて、さすがだな〜っと思うわけです。

実際に、いつ事件を犯してもおかしくない自分に言わせてもらえば

この問題は単なるコストの問題ですね。(この根拠については今後妄想するかも知れないが、今は経験則的にとしておく)

つまり、俺を含めて事件を起こすような人間は、ちっちゃいコストも負えないんですよね

そして、その結果延々と今と変わらない人生が続くことが予想される訳です。

(ここで言うコストとは、例えば、スポーツで上手くなるための努力、あるいはバンドをやるために
ギターを買い、練習し、仲間を集める一連の作業など)

言い方は悪いですが、殺人というものにかかるコストはほぼゼロです。

(こういうと殺された人の命を軽視しているように聞こえるかもしれないですが意図していません)

ナイフなんかを買って、街に出るだけ。それで一時的であろうとテレビでも報道され

何かを成し遂げた感が味わえる。すこし後押しがあれば、コストが払えない人は皆やると思います。

2.対策

前述の通り、この問題はコストの問題なんで、対策は

1) コストを高める

2) リターンを減らす

の2つしかないわけです。

1)とはナイフの販売や所持の規制強化などがこれに当たります。

しかし、人を殺すという作業はあまりにも簡単で、ナイフでも包丁でも、下手すればバットでも

人が殺せる以上、効果は出にくいと思います。

では2)はどうかといえば、これは大量無差別殺人に対する評価を変えれば可能です。

すなわち、こんな事件を起こす人間なんて、下らない童貞(or 素人童貞)だという認識を社会が持つのです

これは売春において、売春する娘はなんか悩みとか影があるという認識が社会に広がったために

痛くも無い腹を探られるということで売春が廃れたことを考えれば、効果は期待できます

いくらコストが無くても、事件を起こして、皆にキモイ童貞とバカにされたがる奴はいませんからね


ただ、このマニュアルですら表面的な対応に過ぎません。

無差別殺傷事件を避けた人間が他の形で人に迷惑をかけることになるからです

結局、この問題はこの問題を考えるより、他に(自分を変えるようなことに)挑戦するコストを

減らすことに着目した方が根本から解決することにつながるんでしょうね

例えば、女の子たちが優しくなってやらしてくれるようになるとか(笑)

無差別殺傷事件対応マニュアル

土浦、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人たちの公判がはじまっていくようで

再びニュースにあがっていたので、前から思っていた対応マニュアルを

「妄想」であるとことわった上で示してみます。

その対応方法とは、簡単に言えば、「超短期間における関係性の構築」です。

前にNHKを見ていて、日曜討論で非常に有能な若い作家さんが「誰でもよかった」という発言の

真の意味について考察されていたんですが (確か平野啓一郎サンでした)

誰でも良かったということは、裏を返せば「誰か」であっては困るということ
本当に誰でも良かったらすぐ傍にいる家族から殺すのが一番手っ取り早い
わざわざ秋葉原まで出てきて殺すということの意味を考えるべきだ

といったようなことを話されていたんですが

自分はまさにその通りだと思いました。つまり彼らは誰でも殺せるが

誰かは殺せないと考えられるわけです。

であるならば、無差別殺傷事件にあったときの対応の方法論として2つ考えられます。

1つが、「超短期間における擬似関係性の構築」です。

「俺だよ、俺俺!」といって実際にはない擬似関係性を構築して、殺されにくくなる

もう1つが、「超短期間における薄関係性の構築」です。

「よ、俺○○(名前)、お前の名前は?なに、トラヴィス?カッコイイね〜」

と話しかけて(目を見ながら)、犯人との間に軽く関係性を構築して、殺されにくくなる

オススメは2つ目です。無差別殺人するやつは大体ろくな人生を歩んでないんで

過去の知り合いぶっても逆に激高して殺しにくるかもしれないです(汗)

もし、現場に立ち会うことになったら試してみてください。。

新説!?押井守はモーヲタだった!

いまさら感が漂いますが、最近Youtubeモー娘。の曲を聴いていて

押井守モーヲタ、しかも加護ちゃんファンであることに気づいてしまったんで

おそらくこんな電波なことを書いている人もいないと思うので書きます。

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たまたま耳に入ってきて気づいたんですが、モーニング娘。の「I Wish」(2000年発売) の歌詞の内容と

押井監督最新作 「スカイ・クロラ」(2008年公開)の内容とがあまりにも合致していたんです

「I Wish」

人生って素晴らしい ほらいつもと 同じ道だって なんか見つけよう!

スカイ・クロラ

昨日と今日は違う。今日と明日もきっと違うだろう。いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。

いつも通る道だからって景色は同じじゃない。

一目瞭然ですね。

そして、押井がモーヲタという考えに立つと全てが一本の線につながります。

・例えば、キルドレはタバコを吸います。特にラストでの草薙のタバコを吸うシーンは印象的に撮られています。

なぜ、タバコなのか・・タバコ、タバコ、タバコ・・・

そうです!タバコといえばモー娘。の加護亜衣による喫煙問題です。

つまり、加護ちゃんへのオマージュだったんですね、ナルホド

・また、押井が特に加護ちゃんが好きであると考えると、なぜ「I Wish」を選んだのかもはっきりします。

加護が加入後一作目の曲は「ハッピーサマーウエディング」 なんですが

加護はバックコーラス扱いでした、しかし 二作目である「I Wish」は加護が歌い始めと歌い終わりを担当する

大抜擢を受けた曲だったんです。

加護ちゃんファンならばこの一曲を選んでもごく自然です。

・そして、これらから浮かび上がるキルドレの正体とは、まさにアイドルだったわけです

劇中で主人公は草薙のことをまだ子供だなとバカにした大人に対し

明日死ぬかも知れないのに、大人になる必要なんてあるんですか

と言い返している。しかし一般に死に直面した子供は大人化するのが普通である。

なぜ、このような矛盾したセリフが生まれたのか・・それはキルドレとはアイドルの投影物であり

死に直面ということは比喩的なものに過ぎないからであり、アイドルと考えれば全く筋の通った

内容になっていることに気づきます。

おそらく、押井監督の本心とは

モー娘。・・加護ちゃん・・なんて可哀想に・・

 皆が忘れても僕は忘れないよ ハァハァ

 皆で商品みたいに僕の加護ちゃんをもてあそびやがって

 貴様らは、キルドレを見世物に楽しむクソ野郎どもだ!」

といったところでしょう

そして、その本心は感情のゆれが極めて小さいキルドレである草薙が劇中で

唯一感情をむき出しにキルドレがかわいそうと同情する婆さんにキレるシーンに現れています。

(多くの人が、なんでこいつキレてんの?っと疑問に思ったと思います)

まさにそれはアイドルを 使い潰す社会、それに同調するアイドルファンに対する怒り

その一方でアイドルの一瞬の光に理想を見る押井自身の葛藤を含んだ

激情が草薙というキャラを通じてはなった一言だったのです!