命に対してバカになれ!
僕も何度も言及していますが、世界的な傾向としては死刑廃止、または執行数の減少という方向にあることは、
すでに知っている人にとっては常識となりつつあります。が、もっともっと周知されるべきだと思います。
諸外国を真似ろというのではなく、死刑が「当たり前」でもなんでもない、我が国の積極的な選択なのだという認識のために。
僕も死刑存置派の主張はだいたい理解しているつもりです。しかし、これだけ国際的な批判や、世界的な傾向に逆らって
死刑を存置しつづけるわけですから、存置派は今後さらに強い説得力のある議論をしてもらいたいものです。
存置の理由一つ一つを言うときには「世界的には廃止や抑制の傾向にあるが、しかし執行数を増やす理由は…」
とつけてもらいたい。
前にも書いたが、死刑廃止派の方々のなかには、上記のように、勘違いされている方が多数いらっしゃる
諸外国を真似ろというのではないのなら、何故世界の傾向に逆らう時、既に制度が存在している側が
立証責任を負うのか?まったく理解できない。
大原則として、制度の改変を求める側が、その合理的理由を提示する義務を負うのだ
そして、廃止派の方々もまともな方ならば認めざるを得ない事実として、冤罪に関する点でしか
合理的理由は廃止派は提示できない(少なくとも出来てはいない)
この点に関して、国民がどう感じているかといえば、社会でリスクを背負うことを否定しているわけです
ならば、廃止する理由はどこにもない、よって既にある制度である死刑制度は、このまま存置される
これが、死刑制度存置、廃止派どちらでもないが、傍から見ていての必然的に導き出される結論だと思うが、どうだろうか。
何で自殺ってしちゃいけないの?生きるのも死ぬのもそいつの自由だろうが。
という疑問に対して長らく答えを出せずにいたのだが、最近になってようやく自分の中で一つの答えが見つかった気がする。
極端な事を言えば、テレビやネットで「増え続ける自殺者の数」を目にするだけで
「俺が自殺しない理由」はどんどん説得力を失っていくのだ。
というわけで自分の考える、「自殺をしてはいけない理由」は「自殺は周囲の人間を引きずり込む力があるから」とする。
結論から言えば、自殺が自殺を呼ぶのではなく、自殺を考えることが自殺を呼ぶのである
だから、上記主は自ら自殺をしてはいけない理由を提示しながら、その実、自らの提示によって
自殺しない理由の説得力を落としていることになる。なかなか面白い矛盾だと思った。
っで、上記2つと自分の無差別殺傷事件の考察を踏まえると、命に対しての理解は不必要なんじゃないかと思った
命を無視すること、これはすなわち中世以前の世界をイメージするかも知れないが、現実問題として現在まで
人道的な歴史は積み上げられてきている。そして日本においては少なくとも生きるうえで障害はほぼゼロと言っていい
であるならば、全く理解できていない命に過大に意味を持たすことに何の意味があるのか、むしろ害悪しかないのではないか
無差別殺傷事件が、起こすためのコストに比べ、死が過大評価されているために、受けるリターンが過度に大きくなっている
そのことが引き起こす原因と指摘したが、自殺に関しても、例えば社会に向けての訴えとして自殺するケースの見ても
死が過大評価されていて、そのために、ある種費用対効果の高いツールとして使われている感は否めない
自殺してはならない理由をあげることが出来ない状況で、命について考えれば、すなわち命の価値付けが出来ずに
仮にゼロとして設定される可能性も非常に高く、その一方で社会内での価値付けが過大であれば、そのギャップに
十分な人生経験をつんでいない人間は陥るのではないか
また、死刑に関する、わが国の不毛な議論は、ここに端を発しているように感じる。
命の価値に目を回して、社会のシステムとしての捉え方が十分に出来ていないのではないか?
繰り返しになるが、命に安易に近づく行為は、夜の海を眺めるように飲み込まれてしまうのではないだろうか
だから私は、命に対してバカになれと、宣言する。
考えないことの重要性もポストモダン期ならばもっと指摘されてしかるべきだ
(もちろん以上の妄想は、自殺してはならない理由を説明する対象、また無差別殺傷事件をおこす対象に対してのもので)
(経済的原因の自殺などに関しては当然別の妄想が必要になる。)
*1:一部編集